法句経 精進こそ不死の道

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ダンマパダ 法句経のことをダンマパダと呼ばれている。釈尊の古い教理、お言葉が、そして、短いものでひとつの経典のごとくにあつかわれていた。だから、法句経と言われている。
 釈尊のお言葉としてこれを見ていくならば、キリスト教でいうならば聖書にあたる、バイブルにあたるものであります。今日のところは、精進ということ、その反対に放逸、その精進と放逸、人間の生活において励みいそしむということ、逆に怠りサボるということなのだ。
 精進こそ不死の道と、放逸こそは死の道なり。いそしみ励むものは死することない。放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなりと。
 言葉は誰にでもわかる。これくらいの言葉だったならば小さな子供でも言葉ではわかるけれども、この内容は人生経験豊かな七十、八十の老人でも内容にいたっては、理解することは、なかなか難しいことだ。お互いに反省して、自分の今まで歩んできた道を考えてみよう。
 これでいいのか、悪いのか。自己を点検することが禅の修行というものだ。そう思うならば、求道心を燃やして、精進あるものが、修行できるということである。精進こそ不死の道と。まぁ、ここでは精進は大切なことだというわけだ。
 お互い日常生活を送っていて、これではいけないと思ったならば努力する.その努力する心がすなわち、人間を完成させていく道ならば、それこそが精進というものだ。
 伝教大師は、天台宗の比叡山そのお山を開かれた.最澄さんのこと。その伝教大師、その最澄さんのお言葉の中に「国宝とは何ものぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす」と、そういうことばがある。
 国宝といえば、やれどこどこの建物が立派だ、重要文化財だ、国宝だ.やれどこどこの美術や庭園なかなか立派なものだ。国に指定されておる、そういうものを持って国宝と呼ぶことができる。
 伝教大師はそういうことをもって国宝と言っているのではない。この一国民としての、人間としての宝とは、どういう人を言うのかと。国宝とは何ものぞ。この国に生まれこの国に育って、人様から尊敬され信頼されその人物とは、どういう人を言うのかな。
 国宝とは何ものぞ、宝とは、その国宝、宝とは、道心なり。精進する心をもって、人間の正しい道に邁進しようとしている、その心それを道心という。その道心有る人を名付けて国宝となすと。
 そういう道心を持った人を名付けるならば、その人こそが国宝だ.宝の人だ。伝教大師は、『山家学生式』という、自らがあらわした書物の中に、その様にかかれておる.そうして、寒い冬も、この比叡山で修行する人たちに、その様に説いて、ともにがんばっていたと言われる。そうして後世の人にも、そういうことを忘れるな、放逸にするな、怠りるな、道心を燃やし、精進こそが不死の道であると言わんばかりの心が、のこされておる。
 これは、インドのブッダはもちろんのことであるが、あるいは中国の達磨大師、禅宗の開祖、そういう人はもちろんのことであるが、あるいは臨済宗の開祖臨済義玄禅師も、もちろん精進の人であり、求道心を燃やした人であるが、日本の、伝教大師も精進の人だ。求道心を燃やした人だ。近世臨済禅を復興したといわれる白隠禅師も精進の人、求道の人であると見ることができる。
 しかし、過去の人がそういう人であっても現在生きている人であって、そういう者は現在いないのか。過去に求めることだけが能ではなかろう。未来にもそういう人が出て来てほしい、未来にたくする。それも必要であろうが、未来だ、未来のことは、それこそ弥勒菩薩に任せておけ。現代に生きておる、この現代の時代の中に共に生きておる、その中に、精進の人、求道の人がいないのか。そのように問われておるのである。
 精進こそ不死の道、精進する心を持ったその人の人間性こそが、不死の道だ。死なない本当の道だ。
 それに比べて、俺はあかんのだと、卑下をし、やろうと思うても、よからぬ思いが頭の中に、心の中にめぐらして、ついついと、怠けてしまう。ややもするとそちらの方に、一日の時間の大半は向いてしまう。そうなったならば怠りこそは、死の道ななのだ。肉体は生きておるかもしれないけれども、心は、死んでおるのと一緒だ。
 放逸こそは、死の道なり。のらりくらりと、生きておるのは、死の道を歩んでおるようなものだぞ。
 白隠禅師は、若かりし頃に、友人と二人で地方に真の師匠を求めて、禅行脚に出た。あそこには立派な和尚さんがおられると会って話を聞き、道のために、求道心を燃やして、そういう行脚をしたのだ.白隠も若かりし時、そういう経験をしたのである。
 ちょうど、備前から、備前というのは岡山だ、備前から播州にかかってきた。播州といえば兵庫県姫路赤穂だ。その播州にかかってきた頃に、ああ、姫路城の立派な城があるじゃないか。友人は言う。「あのお城に一度見学してみたいな、白隠さん行かないか」誘い厄介受けたが、白隠はそんな気になれない。その頃は、道に燃えていたのだろう。友人は、遊び戯れて放逸なる心が多い。寄り道をし、遊びたいという気持ちがある。まあ、連れられて白隠に従って行脚をしておる。仕方ないかも知れないが、その播州路にかかった頃だ。日も暮れて、夕暮れに近づき、長い間歩いておるその体も疲れておる頃だ、山あいに夕日が入りかけようとしておる時に下を見た。深い谷川が下の方に流れておるのを見た。
 「山下に流水あり、こんこんとして止む時無し、禅心もし、かくのごとくあらば、見性あにそれ遅からんや」と
 じっと見ておると、下のほうに谷川の、せせらぎの川の流れる水音と共に目に映る。こんこんと流れひとときも止まることはない。流れ、流れ、流れ、流れておる。その様子をじっと眺めた。その時に、その谷川の、川の流れの、水のように止まることはなく、今、自分のような燃える求道心を持ち、精進の心を持ちつづけるならば、見性あに遅からんや。
 自分が自分として、人間として最も完成されたそういう人間になること間違いなし。それ見性遅からんや。その様に、白隠は若き頃、歌っておられる。そういう修行をしておられる。そういう心境を自ら綴っておられる。山下に流水あり、こんこんとして止む時なし。禅心もし、かくのごとくあらば見性あにそれ遅からんや。燃えるような精進の人、白隠の、精進の程の姿がそこに見られるではないか。
 勤しみ励むものは、死することなし.まさに勤しみ励みたい。燃えるような情熱を持って人間とは何か、この世に生まれ出ててこの俺自身のこの人間とは何か、これを追求しておるのである。
 精神、心というものは、死ぬということではないぞ。どうだお互いそういう気持ちを持って修行し日々の生活を送っておるかな。人ごとではなかろう。禅の道に親しみ禅の道に入ろうとするならば、その心だけでも精進の道に通ずる列車のレールが敷かれたようなものだ。二本のレールが道場へ敷かれたようなものだ。後は、そのレールの上を脱線しないように、前進していけばいいことだ。ややもすると石ころがあったり、いろんな、障害物があって脱線する。その脱線するのは、放逸ということだ。怠りということだ。よからぬ考えをもっておるということだ。つい悪いほうに走りたがるということだ。それが脱線の元だ。それがひっくり返る元だ。それが放逸という。怠りという。ひらたく言うならば、油断だ。
 励むということは容易にできるわけじゃない。古人も苦労しておる。そう簡単なものじゃない。人間が生きていくということは、そう単純なものじゃない。そういう自分も、簡単に生きられるということではない。みんな大きな岩山のような難問題を掲げて生きておるんだ。しかし、その岩山に負けてしまうなよ。大きな木の根っこに負けてしまうなよ。
 社会というものは、そういう障害物がたくさんあるところだ。それをいかに乗り越えていくか。通り過ごしていくか。煩悩と妄想をたくさんたくさん持ち合わせて生まれて来ておる。煩悩がないんじゃない。欲望がないんじゃない。欲望をたくさん持ち、煩悩をたくさん持ち、そうして、その中で生きようとしておる。四弘誓願の中に、毎日毎日読んでおるではないか。「煩悩無尽誓願断」と。
 煩悩は尽きないほどある。尽きないほどあるが、誓って断ぜんことを願っていこうではないか。そういう誓願を打ち立てておる。なかったならば、そういう煩悩妄想だらけだから、毎日毎日自ら誓願をして、生きていなければならないはずである。人間という者はそういうものだ。そういうもんだから、そこであきらめるということであってはならないぞ。あきらめずに精進していかなければならないぞ。放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなり。
 精進、努力せずに、求道心を燃やさずに、自分の欲望の延長上に生きようとし、その道に走ってしまうならば、それを放逸にふけるものというのである。たとえ命ありともだ。たとえ命あって人から見れば贅沢に遊び戯れておるというような命があってそういう享楽主義に走っておる。そういう人ならば、すでに死せるなり。そういうもの人間として、価値を失い、死んでおるのと同じだぞ。そのように、きびしく言われておる。容易なことではない。
 しかし、人間という者は、その様に言われて、そういうものか。道を求める純粋な自分というものが今ここにある。ここにあって、その道の人が知らず知らずのうちに出会っておる。ここで出会うということは、それぞれの人生観の中で人間とは何かを追求し、道のためにここにきておる。その人たちが出会っておる。尊いことじゃないか。
 たとえ満足に生きていけなくても、心は道のためにやっていこう。その心さえ持っておるならば、人から不満足といわれようとも、徐々に少しずつ努力していくならば、必ず道というものは、成就するものだぞ。一滴一滴、ひとしずく、ひとしずく。その一滴一滴が、バケツいっぱいの水になるじゃないか。その一滴から、たくさんの池の水にでもなるじゃないか。いっぺんにたくさんの水を求めるよりも何事も一滴からだ。10キロ、20キロ歩く人でもこの一歩からじゃないか。わずかな人間の身長の、歩幅の一歩から、100キロ、200キロあるいは、300キロ歩いていくのでも一歩から始まっておるじゃないか。大きなことを考えて、考えてしまうと何もできない。
 精進って何か。この我が一歩から、自分の些細な小さな心から、この日常生活から、我とは何か。自分とは何か。そこに工夫の念があるならば、それこそが精進だ。励む心だ。その励む心こそ、不死の道でなければならぬ。我々もよく言われたもんだ。僧堂時代に。こうして雲水として、どういう風にして頭を集める。世間の人は、なかなかそういう縁がまわってこない。ところがここへ頭を集めて、雲水として、修行者としておる者は、選ばれた人間だぞ。
 釈尊のサンガ。仏法僧の僧だ。それをサンガという。サンガに集まる人、それを僧という。衣を着ておるから僧じゃない。衣には関係なく、道を求めて集まる、その集団を指してサンガと名づく。そのサンガに集まる人は、仏陀の教えを聞こうとし、その教えの中に、生活していこうとする。そういう人だから、選ばれた人なんだ。
 だから、禅の道場に集まってくる、そういう人たちは、この世に生まれて、選ばれた人間じゃないか。本当に、真剣に考えたならば、そういうことになる。本当に、それを自覚したならば、なるほどそういうものか、そういうものかとわかるならば、道ということが、少しわかってくるぞ。そういう道の人、そういう自分、そういう自分が今ここにおるぞ。そういうことを自覚しなければならないのである。では、ここにいて、どうするのか。
 人間として、社会の中の位置付けとしているその自分。他の人に貢献し、他の人に信頼を与え、他の人に、よい影響を与えるような人間になるということでもある。それが道心、道の願うところだ。今その様に、心に、深く、刻み込ませるようにして、ここでの生活、ここでの生き方というものを真剣に問うてみたいものである。
 「精進こそ不死の道、放逸こそは死の道なり。勤しみ励むものは死することもなく、放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなり」今日はこれまでにしておきます。ハイ




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